私達が日常使っている言葉の中には、雅楽の用語に由来するものが幾つかあります。
これは雅楽が非常に身近なものであったことを物語っています。
しかし最近ではこのような言い回しをする人も少なくなってきているようです。
雅楽には「呂旋」と「律旋」の二つの旋法があり、合わせて「呂律」と言います。
これが転じて『言葉の調子(旋律)が上手くいかないこと』を言うようになったと言われます。
雅楽に使用される管楽器は複数で構成されますが、その主奏者を「音頭」と呼びます。
雅楽のほとんどの楽が笛の音頭より始められます。
これが転じて『何人かで事を行おうとする時、先頭に立って導くこと』を言うようになったと言われます。
雅楽に使用される笙という楽器は17本の竹管でできています。
そのうちの15本は音が鳴りますが、2本は鳴りません。しかし、現在でも取り除かれることなく楽器の一部分として残っています。
この鳴らない2本の竹管名を「也」「毛」と言います。
これが転じて『無駄なことや、世情に疎く人情の機微を解さないこと』を言うようになったと言われます。
「や・もう」が伝訛して「やぼ」になり、「野暮」の当て字が用いられます。
雅楽では合奏することを打楽器が定める拍節に合わせることから「打合せる」と言っていました。
これが転じて『物事がうまく運ぶ(ぴったり合う)ように事前に相談すること』を言うようになったと言われます。
雅楽の歌曲、朗詠は漢詩を三段に分けてそれぞれ「一の句」「二の句」「三の句」と言います。
二の句より急に音域が高くなりうまく引き継いで歌うことが難しいことが転じて『次に言い出す言葉が出てこないこと』
さらに転じて『あきれて開いた口がふさがらないこと』を言うようになったと言われます。
雅楽の舞楽の中に≪二舞≫という舞があります。
これは≪安摩≫という舞に続いて舞われるもので、「咲面」をつけた老爺と「腫面」をつけた老婆が安摩の舞をまねますが上手く舞えないという滑稽なものです。
これが転じて『人のまねをすること。特に、前の人と同じ失敗をすること』を言うようになったと言われます。
雅楽には≪調子≫と呼ばれる楽があります。
古くはこの楽を奏している間に絃楽器は管楽器の音に合わせて絃を調絃しました。
これが転じて『相手と話を合わせてさからわないこと』を言うようになったと言われます。
また物事が上手く行かないことを『調子が悪い』などとも言います。
雅楽では演奏する曲のことを「楽」と言います。そして舞楽の時、楽人が楽を演奏する場所を「楽屋」と言いました。
この場所では舞人が装束を整えることも行われていました。
これが転じて『役者などが衣裳や化粧などの準備をする場所』を言うようになったと言われます。
雅楽の楽の中に≪千秋楽≫という曲があります。
我が国で作られた楽で仏教の法要の最後によく用いられていました。
これが転じて『物事の終わり、最終日』を言うようになったと言われます。
雅楽の拍子の中に「八多良拍子」というものがあります。
2拍と3拍が交互に続く混合拍子で、初めはなかなか上手く奏することができなかったと言います。
これが転じて『むちゃくちゃになってしまうことや秩序や節度のないさま』を言うようになったと言われます。