自力の修行は『険しい山道を一人歩くようなもの』と喩えられます。 一方、阿弥陀さまを信じて生きていくことは『極楽行きの船にその身を任せて、同じ目的地を目指す人たちと共に水路を渡るような楽しいもの』と喩えられます。 しかしながら数ある教えのうち阿弥陀さまの教えに出会うことは稀なことといわれます。 また出会っても信じることは「難中之難」大変難しいといいます。 宗教は親より相続するのが一般的ですし、真宗に出会ってもなお追善供養的な人もいます。 故人を縁に「仮の信心」から始まって「仮の念仏」を申しながら自力の迷いを捨てていきます。 教えを理解しようと励みますが自力ではなかなか解らせてもらうこともできません。 ですから教えを聞く機会をいただくのです。自力が他力になるまで、聞いて聞いて聞きぬくのです。 そしていつか自然と、全てのことが実は私たちへの計らいであったと気づかされ『ありのままで救う』という本願の心にふれた時、「真の信心」へと変わるのです。 ありがたくて涙の出る思いに以降は、感謝の気持ちが自然に口をついて出てくる「真の念仏」となるのです。 法要の時に頂いた『念仏は自ら申しているようで、実は阿弥陀さまによって唱えさせて頂いている』という法話はこのことなのです。 一度そうなると「心に余裕が出てくる」→「迷信などが気にならなくなる」→「生きていることがうれしくなる」→「阿弥陀さまにもっと関わる生活をしたくなる」→「また本当の意味を知る」と、信じる心は二度と途切れることはないのです。 『真の念仏者は二度死ぬ』といいます。一度目はこの真の信心を頂いた時、二度目は浄土へと生まれる時です。 真の信心を頂いた人は『お釋迦さまが「我が親友に等しき人」と誉めてくれる〜正像末和讃 第五十七首〜』と親鸞聖人が和讃に詠うそんな存在なのです。